いまからちょうど53年前(1964年)、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれました。私が15歳のときです。そのころ、田町の電車区や尾久機関区(現在の尾久車両センター)に出かけて行っては電車や機関車を撮りまくっていました。若いころ国鉄の電気通信技師をしていたという写真屋のおじさんに、鉄道写真の撮り方を教わっていたころです。
建設中の東京タワー(1959年完成)が一段ごとに高くそびえていく様子や、オリンピックの競泳会場に使われた、国立代々木競技場(1964年完成)のつり橋のような屋根が、鋭く反射する金属板で覆われていく様子を窓越しに眺めながら、私は少年期を過ごしました。生まれ育った東京の我が『まち』が『都市』に変わっていく情景は、蒸気機関車が非電化の路線に追いやられていく時期と重なって、とても切なく感じたことを記憶しております。
オリンピックと聞くと反射的に思い出すことがあります。人気の低い競技種目の会場に観客の水増し動員として、半ば強制的に学校から連れて行かれたときのことです。そこで観た競技にのめり込んだ友人もかなりいるのでなんとも言えませんが、私としては無駄な時間を過ごしたとしか思えませんでした。しかし、記憶としていまでも強烈に残っています。国立競技場(千駄ヶ谷駅)までの往復乗車券を記念にいただけたからです。
私が切符を集めはじめたのは6歳の頃です。従兄弟がくれた昭和34年4月4日発行の都城発宮崎ゆきの切符を手にしたのが最初でした。自ら乗車したもののほかに、家族・親戚・友人たちから集めた切符で引き出しがいっぱいになりました。父から譲ってもらった戦前の省線切符がコレクションの中では最も古いものですが、記念切符や、いわくつきのものには興味はなく、普段使われた切符を集めるのが私の趣味でした。今では珍しいと言われるものもありますが、価値のあるなしには関係なく、乗車券類(JRではこう言います)の多様なデザインに魅了されて蒐集を続けました。(現在は休止中です)そのいくつかをお見せいたします。とくに50年ほど前のものを選んでみました。東京オリンピック開催前後に使われたものばかりです。そういえば、あの頃も町じゅうが『お・も・て・な・し』の掛け声でいっぱいでしたっけ。
東海道新幹線開業直前の試乗会(1964年)のときに、参列者に配布された記念のしおりです。元国鉄の技術者だった写真屋のおじさんが、当時は国鉄嘱託のカメラマンでもあったので、試乗招待を受けたのに乗じて連れて行っていただいたときの記念品です。(あとで分かったことですが、他日の記念行事でも配布したようです。)
1950年代後半から60年代の初頭にかけて、東北地方や北海道では、まだ多くの蒸気機関車が働いていましたが、地方路線の電化や気動車化が進むにつれて活躍の場を急速に失っていきました。1958年(昭和33年)蒸気牽引(C61・C62等)の客車列車として特急[はつかり] は誕生したものの、2年後の1960年(昭和35年)、気動車キハ81系に特急列車としての座を譲り渡してしまいました。翌年、室蘭本線に配属された81系改良型特急気動車キハ82系[おおぞら]と連携し、全区間、蒸気機関車をまったく使わずに長距離輸送を可能にしてしまったのです。上野を出て札幌に着くころには、からだじゅう煤で真っ黒になっていたことを思うと、気動車の恩恵ははかり知れないものだったにちがいありません。東海道本線の全線電化(昭和31年)にともなう151系ビジネス特急[こだま]の登場以来、[おおぞら]と[はつかり]は、北に向かう利用者にとって、なくてはならない存在となりました。
運行当初の81系はトラブルが多く、人気はいまひとつだったようですが、81系特有の微振動と燃焼臭は私のからだに染み付いていて、いまだにとれそうもありません。
超高速度撮影の映像を窓から眺めるような感覚でホームを離れていく、あのゆっくりとした動きは、蒸気機関車の牽引が当たり前だった当時の人びとにとっては驚きの体感だったと思います。運行開始の1960年(昭和35)に乗車した従兄の話を聞いた私は、1962年(昭和37年)に体験乗車しましたが、それは雲の上を滑るような心もちでした。
赤い三本線が特急を表し、横長形式のスタイル(D型切符)がえらそうに見えるこの切符は、私のコレクションの中でも最も気にいっているもののひとつです。
1964年当時の上野-札幌間の1等車と2等車の運賃比較です。上が1等車、下が2等車です。ちなみに、現在の運賃は17,930円、特急料金は2,940円です。寝台特急カシオペア(上野-札幌間)の一人当たりの合計料金は、スイート46,360円~コンパート32,315円です。
東京オリンピックが開かれたころのC61やC62は、生き残りをかけて東北本線や常磐線の非電化区間、あるいは北海道に渡って、急行列車を牽引していました。蒸気機関車に興味を持つ人たちが、現地におもむいて写真を撮ったり、乗車を重ねて名残を惜しむようになったのは、ちょうどこのころからではなかったでしょうか。
時刻表で通過ポイントを調べ、そこまで重い荷物を背負って歩いたことのある人も多いのではないかと思います。今は無き列車名が記載された数々の切符を見るたびに思い出がよみがえります。煙のにおいが染み込んだ当時の切符です。
急行北上は、1964年(昭和39年)に寝台特急[はくつる]に格上げされました。最期の北上の切符です。
1969(昭和44年)年5月、等級制廃止にともない『グリーン車』を設けたのを機会に試しに乗ってみました。というより、初めてのグリーン券がほしかっただけですが。
復路の急行がなんだったか、忘れてしまいました。青森-上野間の機関車のすげ替えが見たかっただけです。
列車が青森駅や函館駅に到着するやいなや、荷物を抱えた乗客は(窓から飛び降りるものいたりして)船室めがけて、いっせいになだれ込んで行きます。生存競争に負けたくないという、生き物の本性を丸出しにした姿を見て、中学生になったばかりの私はショックを受けました。大人たちに走り勝たなければ、立ったまま寝るのを余儀なくされるだろうという、そんな切迫感に追い込まれたあの日のことを思い出します。初めて北海道に渡ったときの強烈な印象でした。あれから何回も青函連絡船に乗りましたが、そのたびごとに同じ光景が繰り返されていました。
走って乗り込むのが連絡線の乗船スタイルだ、と後で知らされましたが、あの姿こそ昭和そのものだったのかもしれません。
雪の中を走るC62に再び乗りたくて北海道を訪れました。函館-小樽間(函館本線)の重連(Orchidplace氏の記録が優れています)がなくなるまえに再訪できてよかったと思っています。私がはじめて北海道を訪れた1962年(昭和37年)には十数輌が健在でしたが、7年後の1969年(昭和44年)には4輌(小樽築港機関区所属)しか動いていませんでした。1971年(昭和46年)に運転中止を余儀なくされましたが、C62は今でも鉄道ファンの憧れです。
104レ急行[ニセコ]乗車のときの切符です。
接続する一部の区間の等級が異なるとき運賃を減ずる証しとして『異』の押印がしてあります。これを異級乗車券といいます。札幌・函館間は1等ですが、青函連絡船以降羽越・北陸経由青森・大阪間は2等です。